10年以上前、私がとある病院で働いていた頃に体験した話です。
その病院は地域の拠点病院で、多くの診療科を備えた大きな病院でした。毎日たくさんの患者さんが入退院し、病棟は常に慌ただしい場所でした。
私は、その中でも一般病棟とは異なる特殊な病棟で働いていました。
病棟には、個室の中にトイレと監視カメラが設置された部屋がありました。室内の様子を常に確認できるようになっており、必要最低限の設備しかない、どこか張り詰めた空気を感じる部屋でした。
入職したばかりの私は、先輩に付き添ってもらいながら初めての夜勤に入ります。
その日は、その個室に患者さんはおらず空き部屋になっていました。私の教育のため通常より職員が一人多かったこともあり、休憩室が足りず、私は通常の休憩室を使い、先輩は空いていたその個室で休憩を取ることになりました。
しかし、初めての夜勤という緊張もあり、私はほとんど眠ることができませんでした。予定より少し早く休憩を切り上げ、スタッフステーションへ戻りました。
夜勤中の病棟は、物音ひとつしないほど静まり返っています。
その静寂を切り裂くように、不意に「ザーッ」という水の流れる音が響きました。
反射的に監視カメラへ目を向けると、個室では先輩がベッドで眠ったままです。
誰も動いていません。
それでも、トイレの水だけが流れ続けていました。
私は画面から目を離すことができませんでした。
そのトイレは、壁に取り付けられたカバーを開け、その中にあるボタンを押さなければ流れない構造になっています。先輩はトイレから離れた場所で眠っており、起き上がった様子もありませんでした。
私は何も言えませんでした。
見間違いかもしれない。
そう思おうとしていた、その時です。
先輩が部屋から出てきて、
「……トイレの水、勝手に流れたんだけど」
とだけ言いました。
その言葉を聞いた瞬間、私が監視カメラで見た出来事は見間違いではなかったのだと確信しました。
その話を聞いた別の先輩は、
「また?」
と一言。
続けて、
「あの部屋、たまにあるんだよ」
「また流れたか」
そんな言葉が返ってきました。
誰一人として驚いていませんでした。
私だけが、その空気に言いようのない寒気を覚えていました。
今思えば、不思議だったのは現象そのものだけではありません。
誰も、「そんなことあるわけがない」と否定しなかったことです。
まるで、その部屋では珍しくない出来事であるかのように受け止めていました。
先輩によると、その部屋では以前から、誰もいないのにトイレの水が流れることがたびたびあったそうです。
私もその後約3年間その病棟で勤務しましたが、その間にも今回を含めて3回ほど、監視カメラ越しに誰も操作していないはずのトイレが流れる瞬間を目撃しました。
ここからは、あくまで私個人の考えです。
その部屋は、精神的に不安定になった患者さんが、自分や周囲を傷つけてしまわないよう、一時的に過ごしていただくための個室でした。
室内にはマットレス以外ほとんど何もなく、窓はあっても外の景色を見ることはできません。
私も仕事で何度もその部屋に入ったことがありますが、昼間であっても、必要以上に静かで張り詰めた空気を感じる場所でした。
そこに入ることになった患者さんたちは、それぞれ言葉にできない苦しみや不安を抱えていたのだと思います。
中には、自分の思いを伝えたくても伝えられなかった方もいたでしょう。
あの現象が、それと関係していたのかは分かりません。
ですが、多くの人が苦しみを抱えながら過ごしたあの部屋には、言葉では説明できない何かが残っていたのかもしれない。
今でも時々、そう考えることがあります。
もちろん、設備の故障だった可能性も否定はできません。
真相は、今でも分かりません。
あの部屋は、今も変わらず使われているのでしょうか。
もし今でも、誰もいない個室で夜中に水の流れる音が響いているのだとしたら──。
あの夜、私が監視カメラ越しに見たものが何だったのかは、今でも分かりません。