深夜1時。
登録者数3,000人ほどのVTuber・アリス(仮名)は、いつものように雑談配信をしていた。
同時に配信を見ている視聴者は、およそ100人。
画面の中央には、アリスの表情や動きに合わせて動く2Dのアバターが映っている。
ただし、この日の配信画面はいつもと少し違っていた。
アバターの後ろには、Webカメラで撮影した実際の部屋の映像が背景として表示されていた。
もちろん、身バレ防止のため少しぼかしを入れている。
それでも、
壁。
机。
窓。
部屋の奥にある押し入れ。
その程度なら、視聴者にも分かる状態だった。
顔そのものは2Dモデルで隠しているが、
アリスが実際にその部屋で配信しているように見える画面構成だった。
少しだけ寒い夜
「みんな、今日も来てくれてありがとう」
アリスは笑いながら話していた。
コメント欄には、
『今日も来た』
『夜更かし雑談たすかる』
『明日仕事なのに見てる』
と、いつものようなコメントが流れている。
そのとき、アリスが両腕をさすった。
「なんかさ、今日急に部屋が寒くなってきたんだよね」
「エアコン切れたかな?」
机の上に置いていたリモコンへ手を伸ばす。
その動きに合わせて、画面の中のアバターも少し遅れて腕を動かした。
カメラで読み取った動きがモデルへ反映されるまで、わずかな遅れがある。
いわゆる、
「ラグ」
というものだ。
普段から多少の遅れはあった。
だからそのときは、誰も気にしていなかった。
そんな中、
一件のコメントが流れた。
『後ろの押し入れ、少し開いてない?』
アリスはコメントを読み上げた。
「押し入れ?」
少し笑いながら後ろを振り返る。
アリス本人からは、カメラの外にある押し入れが見えていた。
そして、
「あ……ほんとだ」
確かに引き戸が数センチだけ開いていた。
「閉めたと思ってたんだけどな」
特に深く考えず、アリスは椅子から立ち上がった。
座ったままのアバター
アリスはカメラの前から離れた。
そして部屋の奥へ向かい、
押し入れの引き戸を手でしっかりと閉めた。
ガラッ。
戸が閉まる音がマイクに入った。
「はい、閉めたよー」
そう言いながら戻ってくる。
「気のせいじゃない?」
椅子へ座り直した瞬間、
コメント欄の流れる速度が突然速くなった。
『待って』
『え?』
『今のなに?』
『アリスちゃん今立ったよね?』
アリスは眉をひそめた。
「え? 立ったけど」
『アバター動いてなかった』
『ずっと座ってた』
アリスは画面を見た。
「え、ラグかな?」
試しに右手を振る。
画面の中のアバターは、
一秒ほど遅れてゆっくりと手を振った。
「ほら、ちょっと遅れてるだけじゃない?」
だが、
すぐに別のコメントが流れた。
『違う、そこじゃない』
『さっきアリスちゃんが立った時』
『アバターは座ったままだった』
『完全に別々に動いてた』
アリスの笑顔が消えた。
「……どういうこと?」
コメント欄はさらに騒がしくなった。
そして、
一人の視聴者がこう書き込んだ。
『座ったまま、アリスちゃんが後ろに行くのを目で追ってた』
アリスの背中に冷たいものが走った。
アバターだけが見ている
「やめてよ、そういうの」
笑おうとした。
しかし声が少し震えていた。
『マジだよ』
『アーカイブ巻き戻してみて』
『首だけ動いてた』
『押し入れの方向ずっと見てた』
普通なら、
本人がカメラの前から離れればトラッキングは外れる。
モデルが停止したり、不自然な姿勢になったりすることはある。
だが、
本人の姿を目で追うようにモデルだけが動くことなどあり得ない。
アリスはWebカメラを見た。
緑色のランプは点灯している。
「トラッキングがおかしくなっただけかな……」
そう言いながら設定画面を開こうとした、そのときだった。
新しいコメントが流れた。
『ていうか、背景なんか変じゃない?』
アリスの手が止まった。
『押し入れまた開いてない?』
『さっき閉めたよね?』
アリスはすぐ後ろを振り返った。
自分の目で見る押し入れは、
閉まっている。
「閉まってるよ」
「ちゃんと閉まってる」
しかし視聴者は次々とコメントを書き込む。
『画面だと開いてる』
『10センチくらい開いてる』
『さっきより広がってない?』
アリスは画面を見た。
アバターの背後に映っている部屋。
確かに、
背景映像の押し入れだけが少し開いていた。
アリスはもう一度、自分の部屋の押し入れを見る。
閉まっている。
画面を見る。
開いている。
「……なにこれ」
「後ろ」
その直後だった。
画面の中のアバターが、
ゆっくりと口を開いた。
アリス本人は何も話していない。
口も動かしていない。
それなのに、
モデルだけが何かを喋っている。
「……え?」
マイクからは、
ザザ……
という小さなノイズ音しか聞こえなかった。
アバターは無音のまま、
ゆっくりと唇を動かしている。
何度も。
同じ動きで。
コメント欄が止まった。
そして一人の視聴者が書き込んだ。
『「う・し・ろ」って言ってない?』
アリスは完全に動けなくなった。
別の視聴者も気づいた。
『うしろって言ってる』
『たぶん「後ろ」』
『振り向かない方がいい』
アリスは画面の中のアバターを見つめた。
その目線がおかしい。
こちらを見ていない。
カメラを見ているわけでもない。
アリス本人の肩越し、そのさらに後ろを凝視していた。
まるで、
そこに誰かが立っているかのように。
母からのLINE
そのとき、
机の上に置いていたスマートフォンが震えた。
LINEの通知だった。
送り主は、
実家の母親。
母親も時々、娘の配信をリアルタイムで見ていた。
アリスは震える手でメッセージを開いた。
「あんた、今どこで配信してるの?」
意味が分からなかった。
当然、
今住んでいる東京のアパートだ。
続けてメッセージが届いた。
「配信に映ってる部屋、実家のあんたの部屋に見えるんだけど」
アリスの呼吸が止まった。
「……え?」
さらに、
もう一通。
「でも今、あんたの部屋には誰もいないよ」
背景に映っている部屋
アリスはゆっくりとPC画面を見た。
今まで、
そこに映っているのは自分の部屋だと思い込んでいた。
背景にはぼかしがかかっている。
しかも配信中は、自分のアバターやコメント欄ばかり見ていた。
だから、
細かい部分まで気にしていなかった。
しかし、
母親に言われて改めて見てみると、
おかしい。
まず、
壁紙。
東京の部屋は白い壁だ。
でも配信背景に映っている壁には、
薄い花柄がある。
実家で高校生の頃まで使っていた部屋と同じだった。
次に、
窓の位置。
東京の部屋では机の右側に窓がある。
画面の中では左側にある。
実家と同じだ。
さらに、
画面の端に少しだけ映っている机。
木目の古い学習机。
子どもの頃から使っていたものだった。
そして、
部屋の奥にある押し入れ。
間違いない。
今まで視聴者が見ていた背景は、
東京のアパートではない。
実家にある、昔の自分の部屋だった。
では、アバターは何を見ていたのか
アリスは自分の周囲を見回した。
ここは間違いなく東京のアパートだ。
目の前にはPC。
横にはベッド。
後ろの押し入れも閉まっている。
自分は確かに、
東京にいる。
それなのに、
視聴者が見ている配信背景だけは、
何百キロも離れた実家の部屋を映している。
しかも母親によれば、
その部屋には今、誰もいない。
アリスは画面へ視線を戻した。
アバターはまだ、
本人とは違う方向を見ていた。
実家の部屋の背景。
少し開いた押し入れ。
その隙間を、
アバターだけがじっと見ている。
「……まさか」
アリスが小さく呟いた。
その瞬間。
画面の中で、
押し入れの戸がほんの少しだけ動いた。
ガラ……
という音まで、
なぜか東京のアリスのマイクから聞こえた。
コメント欄が一気に流れ始めた。
『動いた』
『押し入れ動いた』
『誰かいる』
『アリスちゃん配信切って』
『実家に電話して』
アリスは母親へ電話をかけようとした。
その直前。
またLINEが届いた。
母親からだった。
「いま二階から音した」
続いて、
もう一通。
「あんたの部屋の方」
アリスは息をすることも忘れて画面を見つめた。
実家の部屋を映している配信背景。
押し入れは、
さっきよりさらに開いていた。
そして、
画面の中のアバターが、
ゆっくりと椅子から立ち上がった。
アリス本人は座ったままだった。
アバターは押し入れを見つめたまま、
一歩。
また一歩。
背景の奥へ歩いていく。
そんな動きをトラッキングでさせられるはずがない。
そして、
押し入れの前まで来ると、
アバターは突然立ち止まった。
ゆっくりと顔だけをこちらへ向けた。
その口が動く。
今度は、
コメント欄に書かれる前に、
アリスにも読めた。
「こ・こ・に・い・る」
その瞬間、
実家の押し入れの中から、
人間の手のようなものが一本だけ伸びてきた。
画面が真っ暗になった。
配信はそこで途切れた。
ただし、配信終了後も
その日のアーカイブは、数分後に自動的に非公開になった。
アリス本人も、それ以降この件について何も話していない。
ただ、
配信を最後まで見ていた一部の視聴者によると、
画面が暗転する直前、
一瞬だけ奇妙なものが映っていたという。
押し入れから伸びた手ではない。
画面の端。
東京にいるはずのアリス本人のすぐ後ろ。
そこに、
実家の押し入れから出てきたものと同じ黒い影が立っていた。
つまり、
あの配信が実家を映していたのは、
単なる映像の異常ではなかったのかもしれない。
もしかすると、
アバターは最初から、カメラではなく「向こう側」を見ていたのかもしれない。